手描き友禅 腰原きもの工房

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腰原きもの工房の歴史

第一章 工房のルーツ

語り:淳策(二代目)

手描き友禅 「腰原きもの工房」の初代創立者は小生の父、腰原新一です。

小生が物心ついた時を四、五歳と仮定して昭和二十六・七年頃、父は既に東京友禅の模様師として沢山の仕事を抱え活躍して居りました。

模様師という言葉は今では馴染みも無く、知る人も少ない職業言葉となってしまいましたが、 今風に恰好良く言えば着物デザイナーの事です。

要するに文字通り着物や帯などの高級呉服に模様を描く仕事です。 この父の模様師の仕事についてはこれからも追々説明記述が出て来ますが、

まずは戦前の大正から昭和二十年終戦の父の生い立ちと生活について書いてみます。

父、新一は大正五年生まれで生家は日本橋本町で薬問屋を営んで居りました。

三人兄弟の真ん中で四歳違いの姉、一歳違いの妹が居り、腰原家の長男として産まれました。

何不自由ない暮らしのはずが、父の両親は大正七年にスペイン風邪により突然相次いで亡くなってしまいました。

ですから物心付いていた長女は別として、父とその妹は両親の記憶も殆ど無かった事だろうと思われます。

その後、親族が寄り合って相談の結果、 三人の子供達は三軒の親戚に分散して引き取られる事になりました。

姉と妹は女の子という事もあり比較的幸せに育てられたようですが、

父は男の子のため物心ついて成長する過程において、それなりに苦労があったようです。

家業が薬問屋だった為、それなりの財産もあったようですが それも大正十二年の関東大震災で、預けられた先の叔父さんも亡くなり、

自身も幼かった為、親の遺産の管理もどうなったか解らないまま正に没落家系となってしまった様です。

しかしながら、その後引き取られた腰原の親戚に現在の家業につながる東京友禅の糊師の家がありました。

父はそこで旧制中学まで出してもらい、その後は修行を兼ねてそこで働きながら、独学で学業と絵の勉強をしたようです。

もともと向学心、好奇心の強い人で、そのような苦労は苦労とも思わず様々な知識を身につけました。

立派な学歴こそ有りませんでしたが、父は博学で雑学の宝庫の様なユーモアたっぷりの面白い人でした。

父の修行した「糊師」の仕事とは東京友禅や手描き友禅の特徴ともいえる、

糯米(もちごめ)で作った防染糊で柄の輪郭(糸目)を描く仕事です。

糊を「先金」という金具のついた円錐形の渋紙の筒に入れ、

反物に描かれた下絵の上に細い線として絞り出して「糸目」という輪郭線を描く仕事です。

また、彩色後には模様の上に防染の「ふせ糊」を使ってベタ埋めしたりする仕事もします。

染師が引き染めをする前段階の工程です。

手描き友禅の仕事にあっては頂点には先に述べた「模様師」が居て、

注文主の意向に合わせて着物や帯の図柄や色など、全体的な構想を決めます。

そして、制作手順に従って抱えている下職さんに仕事を廻しながら作品を完成させて行きます。

主な下職さんには、「糊師」、「染め屋(引き染め)」、 仕上げ過程では「箔・金彩師」、「刺繍屋」さん等が有ります。

この様に多くの職人の手を経て一つの作品が出来上がる訳でありますが、

これらの職人さん達は飽くまで模様師さんの職方で言わば縁の下の力持ちで有り、

その作品は模様師の作品として世に出て行くのです。

若い頃から糊師の修行をした父はその腕も確かでした。

仕事を頼みに来る模様師さんも、本来なら、自分で仮絵羽縫いした反物に下絵を描き、 父に持ち込むはずなのですが、

「松」とか「梅」とか題材を告げるだけで父は仕事をしたそうです。

これらの話は小生は全て母から聞いた話ですが父からは亡くなる迄仕事の話や、

自慢話、苦労話、戦争の話などは一切聞かされた事は有りませんでした。

第一章 戦後の東京友禅

語り:淳策(二代目)

糊師でありながら、下絵も描ける父(新一)はいよいよ東京友禅の模様師としても活躍するようになっていきます。

父は自分の技術の下地に「糊」という友禅加工の重要な部分の仕事をしていた為、

数多くの作品制作に携わり、ついには糊師という一職人に飽き足らず、

自ら制作全体を統括する模様師に転身したのだと思います。

そして、戦後、父が模様師に転身した理由はもう一つ有ると思います。

それは戦争により、東京は友禅の他の産地である京都や加賀と違い、特に壊滅的な打撃を受けたため、

戦後すぐに仕事が始められなかった事です。

本来、分業制が確立していた東京友禅の職分が一時的に失われてしまい、

その為、「模様師」が他の職方の仕事を兼ねるという事態が自然発生的に起き、

父は逆に「糊師」から「模様師」に転身しやすかったのだと思います。

東京友禅に限らず、友禅の業界は代々世襲で有ったり、

徒弟制によりある程度の年限、修行の後に師匠から独立の許しを得て、一家を成す事が出来たものです。

それでも、「誰それは、何処で修行した。」とか「誰の弟子」だとか

結構、業界内に在ってはそれ相応にうるさい事も有りました。

「腰原」の名は「糊師」としては「有田屋」の屋号持ちで、

東京友禅の業界ではそれなりに知られた名でしたから 父も「誰それの弟子」等という事も無く、

自分の才能次第で仕事がしやすかったのだと思います。

「模様師」は自分で「草稿(図案)」を作り、「青花」と言う、

熱を加えたり、水に濡れると消えてしまう染料(露草から取った絞り汁)を使います。

「青花」を和紙に含ませ、塩昆布状の形態にして小皿にのせ、 少し水で湿らし面相筆で下絵を描きます。

そして「糊師」はその下絵通りに「糊置き」をして彩色をします。

父は「糊師」であるにもかかわらず、図案から下絵描き、糊置き、全て自分でこなしました。

流石に「染め」と刺繍だけは専門の職方に頼みましたが、 「箔・金彩」の仕事も自分で器用にこなしました。

手描き友禅染めの反物は先染めでは無く、後染めの引き染めにします。

着物とは不思議な物で洋服と異なり、裁断は直線的です。

初めは幅40㎝弱の反物の状態で、普通の着物の長さは最低でも三丈三尺(鯨尺)ほど、 実際にはもう少し長い物も有ります。

これを「ガリ」と呼ばれる器具に生地の両端に掛けて引っ張るのですから、

生地の伸びを見越すと最低でも十七メートル程の長さが染め場として必要です。

数を染めればそれだけ土地の広さは必要で、 東京も都心では少し郊外に行かなければそのような広い土地は無理でした。

また、染屋さんも兼ねようと思えば余程の資本投下が必要でした。

そこで父は最終的には工房を染屋さんの道路一本挟んだ処に移しました。

昭和三十二年父が四十一才の時でした。

場所は新宿区早稲田通り沿い戸塚町で、駅で言えば山の手線の「高田馬場駅」から

西武新宿線の「落合駅」、「下落合駅」、「中井」、「新井薬師駅」くらい迄の間です。

現在では殆どが廃業して、当時を偲ぶべきもない有様ですが、

近くには材料屋、湯のし屋、蒸し屋、紋屋など 沢山の東京友禅業界に関連する人達が集っていました。

この頃が腰原きもの工房の創成期にあたる時代です。

第三章 二代目の継承と工房の確立

語り:英吾(三代目)

ここからは昭和32年から昭和50年頃までの間に

工房の主役が 新一(初代)から淳策(二代目)へ移り変わり、

友禅作家の工房として確立してゆく話を英吾(三代目)が語ってまいります。

私(英吾)の祖父(新一)は高田馬場で約4年間、工房を構えておりましたが その後、新たに広い工房を求めて新井薬師に移りました。

そして、そのすぐ約2年後、工房を改築している途中で他界してしまいました。

私の父(淳策)がまだ高校生16歳の時です。

父は高校生の時に姉の節子さんと跡を継ぐ形になりました。

仕事をしながら勉学もしなければならず、 オートバイで学校に通い、

学校が終わるとその足で染屋さんや問屋さんへ 反物の配達をしていたそうです。

当時、一家の大黒柱である祖父が亡くなってしまった状況では

大学へ進学する事も諦めてしまうのが普通の時代なのですが、 父は仕事をしながら大学へ進学する事を考えました。

父の話によると、学校の先生からは「難しいからやめておけ。」と言われたそうですが、

見返してやると頑張って見事、希望通り、早稲田大学へ入学しました。

この頃の父は亡くなったばかりの祖父がいつも背中の後ろに立っていて

見られているようなプレッシャーと緊張感を感じでいた様です。

大学時代も相変わらず、父は仕事をしながら通っていたそうですが、

父は学校で学んだ事よりも、海外への短期留学で経験した事の方が 後々の人生のためには有意義だったようです。

※実はここだけの話ですが、外国で食べたサンドウィッチが最高に美味しかったらしく、

当時、日本にはサンドウィッチの専門店が無かったので

帰国したらサンドウィッチ屋さんになろうかと 半分、本気で思ったようです。

今でも時々思い出しては絶対に成功していたと言っているほどです。

さて、大学を卒業して、いよいよ本格的に「腰原きもの工房」の手描き友禅を継ごうとする父に

友禅の仕事を一から教えてくれる人は誰もありませんでした。

その為、着物や友禅に関わる事を一から研究する必要がありました。 特に染めに関する事を勉強したそうです。

それまで、祖父・新一の時代では染めは染め屋に頼んでいたのですが、

父は何とか自分の工房で引き染めをする事は出来ないか?と考えました。

父は染め屋さんに反物を届けたり受け取りに行く度に、

それとなく職人さんに染料にはどんなものを使っているのか?

だとか、何が入っているのか?だとかを 上手に聞き出して、

職人さんがつい口をすべらした言葉を参考にしたそうです。

とは言え、おいそれと職人さんがそんなに簡単に肝心な事を教えてくれる訳も無く、

生地の張り方から、豆汁や染料の調合まで、自分であれこれと試行錯誤しましたが、

思った色で染める事や、ムラ無く染めると言う事は大変難しく、多くの失敗をくりかえしたそうです。

たとえ知識を知っていたとしても、染めの工程を体が覚えるまでには特に修行が必要です。

一から挑戦した若き頃の父はさぞかし苦労したことと思います。

多くの失敗を繰り返し、ようやく自分で染めが出来るようになった事で、

手描き友禅の主だった仕事を全て自分の工房でこなせるようになりました。

一人の人間が自由に図案を描き、糊を置き、彩色をし、染めもできるという

友禅作家の工房として生まれ変わるの第一歩とも言うべき出来事です。

第四章 作家活動(小平市花小金井南町時代)

語り:英吾(三代目)

父は昭和49年、山形から上京し、腰原きもの工房のお弟子として働いていた 幸子(私の母)と結婚し、

翌年の、昭和50年に長女・園子(私の姉)が生まれました。

その後、昭和53年に腰原きもの工房は小平市花小金井南町に移転し、

姉・節子さんは(株)あらたを設立して家業と活動を分けました。

花小金井を新天地として、父と母が新しいスタートを踏み出したこの年に私が生まれました。

当時は決して裕福とは言えない家庭環境で、出産費を産院に払うお金がなく

出産直後の母が自ら産院の病院から集金の電話をするほどだったそうです。

父と母が一番頑張ったのはこの花小金井南町時代です。

花小金井南町の工房は平屋の一軒家でした。 父はこの物件を見つけるためには、かなりの苦労をしたそうです。

友禅染めには着物一反を張れるだけの広い敷地が必要ですが、

駆け出し時代の父に友禅工房を兼ね備えた住居として貸してもらえる物件は多くなかったからです。

父は親切な友人の紹介を得て、花小金井南町にある庭付き一軒家をようやっと貸りる事が出来ましたが

この物件も元は普通の住宅ため、当然ながら染め場はありません。

私が生まれてしまった事と工房の移転が重なった事もあり、 資金的に乏しかった父は自分で染め場を建てました。

湿度、温度によって染め上がりが左右される友禅染めにおいて、 花小金井南町時代の染め場は完全な環境とは言えず、

天候が悪い時などには真夜中であっても常に乾きの状態を見ていなくてはならないという苦労がありました。

家の中では図案制作、糊置き、彩色などをする仕事場と居住スペースが一応、区別されておりましたが、

私が子供時代を過ごした花小金井南町の家では生活と友禅が常に一緒にありました。

両親の作品を着物雑誌、「美しいキモノ」へ掲載していただくようになったのも花小金井南町に移転してからです。

「美しいキモノ」に作品が掲載される様になると、両親の仕事も少しづつ軌道に乗り始め、

しばらくすると、お弟子さんも二人抱えながら友禅工房を運営するようになりました。

工房主催の展示会も毎年二回、銀座の日産ギャラリーと花小金井南町の友禅工房で行うようになりました。

自宅を兼ねた工房は昭和によく見られる木造の一般家屋でしたが

展示会ともなると、居住スペースになっている部屋も仕事場も全てが片付けられ

毛氈が敷かれて、衣桁や撞木に所狭しと着物や帯が飾られます。

それを観にやって来るお客さん達の反応に子供ながらにとても嬉しい気持ちになったものです。

お客様が直接に工房作品をご覧にただける展示会は、現在も続いている工房の伝統行事の一つです。

第五章 新たなる作家活動(青梅工房新築移転)

語り:英吾(三代目)

両親は花小金井南町での活動は約15年間ほど行いましたが、

より良い制作環境と広い土地を求めて、平成6年に現在の所在地である 青梅市柚木町に友禅工房を新築移転しました。

花小金井南町とくらべて青梅市柚木町は郊外ですが、美しい草花を題材とする友禅にとって、

御岳渓谷の自然は作家活動にはかけがえのないものになっています。

私が高校から大学を卒業するまでの間に母・幸子が亡くなり、工房が悲しい気持ちに包まれた時期もありました。

私が工房を継ぐことを楽しみにしていた母に、自分の作品を観てもらうことはできませんでしたが

現在に至るまで、多くの方々に着物や帯をお召しいただけているのは、両親のお蔭です。

2002年、私は多摩美術大学日本画科を卒業し、腰原きもの工房で手描き友禅の仕事を本格的に始めました。

平成20年には大学の同級生であった信子と結婚し、お互いに切磋琢磨すべく制作に励んでおります。

父も同時期に現妻・和美と再婚をいたしました。

母・和美は江戸端唄、末広会の家元「末広扇みわ」として入谷・浅草を拠点として多くのお弟子さんと活動しています。

淳策・英吾・信子も弟子として、端唄、三味線を習っています。

邦楽を通して新しい出会いの場も増え、信子は国立劇場や三越劇場の出演も行うなど着物に携わる活動も行っております。

現在では三代目として私(英吾)が父・淳策から工房の運営を引継いで作家活動しております。

両親が築き上げてきたものを大切に、そしてさらに昇華できるよう精進して参る所存です。

五章に渡り、お読みいただき有難うございました。